2007年の11月21日、特に予定もないので市内のあちこちに広告の出ていたロートレック展を見に、愛知県美術館に行った。 ロートレックについては、ポスターを沢山描いたとか、貴族の出身だとか、背が低かったとか、ムーランルージュに入り浸っていたとか、そんな常識的なことくらいの知識しかなかったが、絵がわかりやすいこともあって好きな画家の一人でした。 こんどこのロートレック展で彼の絵とともに、ロートレックの生涯についての解説を読んで、さらにロートレックが好きになった。
ロートレックの生家は、フランスの名家であり、伯爵家である。祖先は9世紀のシャルルマーニュ時代までさかのぼることができる。 父のアルフォンス伯は、奇妙な服装をするなど、変わり者で有名であった。 ロートレックは、幼少期には「小さな宝石(プティ・ビジュー)」と呼ばれて家中から可愛がられて育ったが、13歳の時に左の大腿骨を、 14歳の時に右の大腿骨をそれぞれ骨折したために脚の発育が停止し、成人した時の身長は152cmに過ぎなかった。 胴体の発育は正常だったが、脚の大きさだけは子供のままの状態であり、 現代の医学者はこの症状を骨粗鬆症や骨形成不全症といった遺伝子疾患と考えている。 脚の不自由だった彼は、しばしば疾走する馬の絵を描いている。 1882年にパリに出て、当初はレオン・ボナの画塾で学んだが、まもなくして画塾が閉鎖されたため、モンマルトルにあったフェルナン・コルモンの画塾に移り、 以後は晩年まで同地で活動するようになった。 なお、コルモンの画塾ではファン・ゴッホ、エミール・ベルナールらと出会っている。 絵画モデルであった、マリー=クレマンチーヌ・ヴァラドン(後のシュザンヌ・ヴァラドン)のデッサンの才能を高く評価し、彼女が画家となるきっかけを作った。 彼女をシュザンヌと呼び始めたのもロートレックである。 画家自身が身体障害者として差別を受けていたこともあってか、娼婦、踊り子のような夜の世界の女たちに共感。パリの「ムーラン・ルージュ(赤い風車)」をはじめとしたダンスホール、 酒場などに入り浸り、デカダンな生活を送った。そして、彼女らを愛情のこもった筆致で描いた。 作品には「ムーラン・ルージュ」などのポスターの名作も多く、 ポスターを芸術の域にまで高めた功績でも美術史上に特筆されるべき画家であり、「小さき男(プティ・トンム)、偉大なる芸術家(グラン・タルテイスト)」と形容される。 かれのポスターやリトグラフは日本美術から強い影響を受けている。 1901年8月20日にパリを発ち、母のもとへ行き、同年9月9日、マルロメで母に看取られ死去した。享年37。 なお、ロートレックを扱った映画としては1999年のフランス映画「葡萄酒色の人生」がある。 |