訪問した時、藤田美術館では第120回秋季展として『東洋の美に出逢う』が開かれていた。 行きのバスの中で、同行して戴いた阪野先生から藤田伝三郎と藤田美術館の収蔵品について詳しく説明を聞いてからの鑑賞だったので一段と興味深く鑑賞することが出来た。 藤田美術館は実業家で男爵であった藤田伝三郎(1841-1912)、その長男の藤田平太郎(1869-1940)、伝三郎の二男の藤田徳次郎(1880-1935)の三人が収集したコレクションを展示している。 収集した東洋古美術品を中心としたコレクションを公開する目的で、1951年(昭和26年)財団法人藤田美術館として法人化、美術館の開館は1954年(昭和29年)であった。 藤田伝三郎は、西南戦争で巨利を得、藤田組を設立した明治時代の関西財界の重鎮であった。骨董収集の面でも関西第一と言われ、その豪快な買いっぷりは伝説化している。 藤田伝三郎は明治の経済界で活躍した実業家でしたが、別の面で特筆すべきは児島湾の干拓工事です。 この計画は江戸時代からあり、一部着工されていたようですが、明治になって岡山藩の旧藩士が進めようとしたが資金難で進まず、藤田伝三郎を頼ってきた時、その壮大な計画に夢を感じて引き受けた。 しかし農民、漁民の無理解による反対運動と、難工事で明治32年の着工から全体の七つの工区が完成したのは昭和38年で、実に65年の歳月をかけています。 藤田伝三郎は第2期工事の完成直前の明治45年に亡くなっています。 上記の藤田美術館のホームページが岡山市によって作られているのもその功績に報いる一環かもしれません。(確認はしていませんが・・・・) (2007年藤田美術館訪問時は岡山市によるホームページでしたが、2013年10月から独自作成のホームページに変わっています) 伝三郎の没後、昭和初期に藤田家蔵品の売り立てが3回行われ、この時売却された蔵品には、現在各地の美術館に納まっている名品が目白押しであった。それでもなお、現在の藤田美術館には国宝9件、国の重要文化財50件を含む名品が5000点所蔵されており、藤田家コレクション全体の規模の大きさが想像される。 藤田美術館の所在地は、多くの蔵が並んでいた藤田家本邸の跡地である。邸宅は第二次大戦の空襲で焼失してしまったが、美術品を納めていた蔵は幸い類焼をまぬがれ、現在は蔵を改装した建物が展示館として 使用されているが、収蔵品の質・量に比してやや手狭であることは否めない。 展示室スペース不足から、 春・秋の特別展の際にのみ収蔵品を選んで展示する形態となっている(古い蔵が展示館なので、収蔵品の劣化防止のために寒暖が厳しい季節に開館できないからであるという)。 伝三郎の大阪本邸は太閤園、東京別邸は椿山荘、箱根別邸は箱根小涌園、京都別邸は ホテルフジタ京都に衣替えし、藤田観光が経営している。 今回の訪問で美術館を拝観後、太閤閣も見ることが出来たが、庭には天平時代の東大寺大伽藍の礎石、室町時代の石像など今では簡単には集められないようなものが多く配置されている。 なお、藤田組は1945年には同和鉱業株式会社に改称し、2006年にはDOWAホールディングス株式会社に商号変更し業容を変えながら現在も続いている。 |
藤田美術館入口 |
同左 |
建物への入口 |
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蔵らしい展示室の扉 |
扉上の装飾 |
第120回 秋季展 東洋の美に出逢う のパンフレット |
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下の5ページの各画像にマウスポインターを乗 せると各画像の題名などが表示され、クリック すると拡大表示されます。 |
太閤園 迎賓館 |
庭には石造物が多い |
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東大寺大伽藍の礎石 |
池 |