10年ほどかけた復元工事が完成し公開が始まった名古屋城本丸御殿に行ってきました。 予想よりはるかに素晴らしく、各所に感嘆しながら鑑賞しました。
案内いただいたボランティアガイドさんが知識も豊富で親切だったこともあって楽しく過ごせました。
戦前、お城と御殿が国宝に指定されてから建物の精密な測定がされて膨大な図面として残されたこと(作成された図面は”昭和実測図 閲覧サービス”としてネットで公開されていてだれでも見ることができますのでリンクをクリックして一度見てみてください。 実に細密で手がかかったことと思います、こんな図面が309枚もあるとのことですから・・・・)
襖絵、欄間、天井絵などで外せるものはは空襲を避けるため疎開していたこと、また大量のガラス乾版写真が残されていたことなどにより、今回の復元工事では焼失した本丸御殿がほぼ完全に再現されていることがわかりました。
再現されたと言っても焼失する直前の姿であって、創建当時また増築時の姿ではありません, これらの解明は今後続けられると思います。
長い時間と巨費をかけた名古屋城本丸御殿が完成し公開されることはよく知っていましたが、古い本丸御殿が残っているのであれば巨費をかけて保存する意味もあるが、模造品を作るのに何ほどの意味があろうかと思い全く興味がありませんでした。
でも、最近10人ほどのグループで二人づつ順番に計画を立て、隔月にいろいろなところへ行っていてもう4年ほどになりますが、そこで名古屋城本丸御殿に行く計画がもちあがりました。
あまり気が進みませんでしたが、とりあえず行ってみようかという程度で行きました。
今年の夏は特に暑く、その中でも8月2日は殺人的な暑さでした。
名古屋城の正門でお会いしたボランティアガイドさんに案内されて名古屋城構内を歩き始めたのですが、広い構内を歩いて回り暑いとは思いましたが、本丸御殿に入れば涼しいだろうと思って屋内に入るのを楽しみにしていました。
しかし本丸御殿に入ってみると、冷房による建物への影響を考えてのことらしいのですが全く冷房がなく、大勢の観客で外部以上に暑く本当にこたえました。
でも、ガイドさんの説明を聞き、実物を見ているうちにこの復元計画の価値がよくわかり、建物とその装飾のすばらしさに引き込まれてゆきました。
名古屋城と本丸御殿は400年あまり前の1615年(慶長20年)ころ建てられたようですが、当時の絢爛豪華さがよくわかります。
ヨーロッパのバッキンガム宮殿、ヴェルサイユ宮殿などに比べて日本の城は地味だなと思っていましたが、この本丸御殿の装飾なら全く劣りません。
このページに私が撮影した写真を掲載していますが、ネットに名古屋市がまとめたページhttp://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/honmarugoten/01_about/index.htmlがあり、こちらのほうが良い画像がたくさんありますし、本丸御殿についての解説も詳しく載っています。
この他、名古屋情報通ページhttps://jouhou.nagoya/honmarugoten_repo/にも多くの写真などがあります。
とにかく予想外に良い1日でした。
名古屋城平面図 上洛殿工事中の図です |
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正門 |
本丸に入る表二之門 |
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案内していただいたガイドさん |
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旧二の丸大手二之門 |
上にある名古屋城全体の平面図に見えるように、本丸(空堀で囲まれた天守閣を含む方形の部分)のうち本丸御殿は大小天守閣より大きな面積を占めており、名古屋城の最重要な建物の一つであったことがわかります。
1915年の創建当時は城主義直がが居住する御殿でしたが、1620年(元和6年)に将軍上洛時の御成専用とすることになり、改造されました。以後、藩主は二之丸御殿に居住していました。
名古屋城本丸御殿は御成専用とするだけあって、当時の二条城本丸御殿に匹敵するものでした。
尾張藩主の居住した二之丸御殿は、大小天守閣、本丸御殿のある空堀で囲まれた本丸の外の東側(図の右側)に位置していて、御殿の広さは本丸御殿よりはるかに大規模でした。
本丸御殿を使った将軍は秀忠、家光、家茂の3人で、上洛の途中に宿泊しています。
御成御殿となった後の本丸御殿は、尾張藩士により警備と手入れが行われるのみで、 名古屋城主である尾張藩主ですら本丸に立ち入るのは巡覧の時のみであったそうです。
南御門から入ると正式な入口である式台があり、奥に玄関が建っていました。他、中玄関、広間(表書院)、対面所、上洛殿、湯殿書院、 黒木書院、上御膳立所(かみごぜんだてしょ)、下御膳立所(しもごぜんだてしょ)、孔雀之間、上台所、下台所、大勝手などの殿舎が建ち並び、他各種の蔵や番所が建てられていました。
車寄の屋根は将軍家と身分の高い一部の大名だけが 使用を許された唐破風で、黒漆塗りに金の金具の屋根は室町時代の将軍邸の形式で天下人の象徴とされたものです。
御殿の内、慶長創建の建物は玄関・広間・対面所で、後に建築された書院と比較すると欄間にある障壁画の有無という差異が確認できます。
明治維新の後も本丸御殿は残されましたが、二の丸御殿関係の建物はすべて取り払われ陸軍省の軍用地とされました。