伊勢神宮には何回も行ったが、今回これまでと違ったの点の第一は、今まで意味が分からないので見ようとしなかった、御正殿以外のいくつもの別宮を見てまわったことであり、第二は、神宮徴古館、神宮農業館、式年遷宮記念神宮美術館を見ることが出来たことである。 見るだけでは別宮も神宮徴古館なども、意味不明であまり興味のわくことはないが、今度のツアーでは、皇學館大學教授の岡田登先生がすべて同行して説明して戴いたので、大変興味深く見ることが出来、また参拝することが出来た。 内宮・外宮それぞれの別宮は下の表の通りです
神宮徴古館などは、伊勢神宮を参拝する殆どの人は立ち寄ることがないのではないかと思う。 だいたい私の不勉強かもしれませんが、その存在さえ知りませんでした。 残念なことに、太平洋戦争のときの空襲で、徴古館の建物、収蔵品の殆どが焼失したとのことで、本当にめぼしいものはあまりありませんが、式年遷宮関係の資料(調度品、御装束、神宝)などは20年ごとに造り替えられた実物を見ることが出来ます。 調度品、御装束、神宝などのいずれもが、その時代の最高の作者によるもので、見ごたえがあります。 また案内して戴いた先生に伊勢神宮の御師(おんし)について説明を受けた。 最盛期には、有力な御師はその権勢が小大名に匹敵するほどであったこと、江戸時代末までは数百人(?)の御師がいた事などを聞いた。 現在でも一部はその屋敷が残っているとのことである。 |
外宮 豊受大神宮 ここをクリックすると 外宮が分かるのサイトへ とびます |
外宮内域案内 |
多賀宮 |
同左 |
土宮 |
先生から説明を聞いたが忘れた 説明書にもホームページにも書いて ないが、極めて古いものらしい |
中央が説明いただいた岡田先生 |
豊受大神宮の正殿に向かう |
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側面から見た内宮正殿 |
平成二十五年の 式年遷宮のお敷地 |
階段下から見た内宮正殿方向 |
風日祈宮橋 |
左の橋の擬宝珠の一つに 明応七年 観阿弥 の字が見える |
五十鈴川に架かる宇治橋 |
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荒祭宮 |
風宮 |
風日祈宮 |
土宮 |
外幣殿 |
御稲御倉 |
明治19年伊勢神宮周辺の整備を目的に有栖栖川宮熾仁親王を総裁とする神苑会(しんえんかい)が結成された。 この神苑会は農事促進を目的として1891年(明治24年)に外宮前に農業館を設立、日本初の産業博物館となった。 農業館は迎賓館や奈良国立博物館で知られる片山東熊による設計である。平等院鳳凰堂をモデルとした和洋折衷の農業館は、片山の作品としては数少ない木造建築となった。 1906年(明治39年)11月に農業館と同じく片山の設計による徴古館の建設を開始、1909年(明治42年)5月に完成し、同年9月29日に日本初の私立博物館として開館、 1911年(明治44年)4月に周辺の土地を含め伊勢神宮へ奉納された。 徴古館は和洋折衷の農業館とは趣を異にし、ベルサイユ宮殿を模した前庭を持つルネッサンス式の西洋風建築とされ、 東京国立博物館の表慶館同様、正面中央にドームを配した高い屋根を持つ鉄筋コンクリート造の平屋となった。 中央奥には貴賓室が配され、皇太子時代の大正天皇・昭和天皇をはじめ、各宮家の皇族などの要人が神宮に参拝するときの休息場所として利用された。 1910年(明治43年)、当時皇太子であった大正天皇が11月14日に外宮内宮を参拝したのちに徴古館を訪れ五葉松を植樹している。 第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)7月にアメリカ軍の空襲により炎上し、建物は外壁を残すのみとなり、収蔵品の大部分は焼失した。 1953年(昭和28年)の第59回神宮式年遷宮を記念し、石造りの外壁だけが残った状態から徴古館は修復された。 ただし、ドームと貴賓室は再現されず、新館を増築、平屋から2階建てにするなどの変更が加えられた。 現在、徴古館では神宮式年遷宮で「撤下」された御装束神宝のほか、内宮正宮の1/20サイズの模型、遷宮で解体された本殿に使われていた扉、千木・鰹木、祭典用具などを中心として展示されている。 そのほか、土器、鏡、太刀などの古墳時代の出土品、古文書、国史絵画、俳祖荒木田守武に関する資料、平賀亀祐の作品など国の重要文化財11点を含む約8,000点の資料を所蔵している。 |
昼食は料庵で懐石膳をいただいたが、きれいな盛り付けでおいしかった |
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