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北澤美術館本館・北澤美術館新館

北澤美術館のホームページ  http://kitazawamuseum.kitz.co.jp

私がこの美術館を訪問したのは今度で3回目です。 1回目は20年ほど前で2回目は10年ほど前だったかと思います。
最初に訪れたとき、独特の雰囲気のある数多くのアールヌーボーのガラス作品に感動し、諏訪湖の見える部屋でゆっくり時間を過ごし、いい美術館だなと思ったことを記憶しています。
これまで訪れたときにはまだなかった新館が開館されていましたが、過去の思い入れがあるのか本館のほうがいい雰囲気のように思いました。
以下北澤美術館のホームペジからその沿革などを抜き書きしました。
1983年5月、信州諏訪湖のほとりに諏訪北澤美術館が開館。つづいて1989年4月、山梨県清里高原に清里北澤美術館が開館。 北澤美術館は北澤利男が長年にわたって収集した美術コレクションを一般に公開し、地域文化の向上に寄与する為に設立されました。 コレクションはエミール・ガレに代表されるフランス・アール・ヌーヴォー期のガラス工芸700点と、 現代日本画200点から成っています。

創設者の北澤利男は、1951年(株)キッツ(旧北沢バルブ)を創業し、経営が軌道に乗った40年ほど前から新作日本画の収集を開始。 東山魁夷・杉山寧らの作品を集める一方、近年はアール・ヌーヴォーのガラス工芸収集に力を入れ、現在この分野では世界有数のガラスコレクションを作り上げました。

19世紀末、ヨーロッパの工芸界に新風を吹き込んだアール・ヌーヴォー運動(フランス語で新しい芸術の意味)を推進した工芸家たちは 、都市生活者の住空間にうるおいを与える新鮮なデザインを探し求めて、自然の草木が見せる曲線的なしなやかさに注目しました。彼らは自然の息吹を感じさせるフォルムを好み、 しばしば花や昆虫を装飾に用いましたが、これには当時流行したジャポニスム(日本美術の流行現象)の影響が少なくないと考えられています。 古来より日本人は、陶芸や漆工などの工芸品に自然のモチーフを好んで描いてきました。そのような日本美術の伝統が世紀末のフランスに紹介されて、 エミール・ガレを始めとするアール・ヌーヴォーのガラス工芸品に日本的な詩情を付け加えることになったのです。 平成15年(2003)4月1日 諏訪北澤美術館の名称を北澤美術館に復し、新たに北澤美術館新館をSUWAガラスの里内に設置した。 入館料を変更し本館・新館共通料金で大人800円とした。中学生以下の生徒児童は無料化し、館内の写真撮影を条件付で可能とするなど開館以来の規定が見直されました。
入館時に確認したら、ストロボを使用しなければ館内撮影が出来るとのことだったので沢山の写真をとることが出来、整理に困るほどであった。
美術館に行く前に諏訪 I Cから近い諏訪大社に寄った、ここは大河ドラマ『風林火山』の由布姫の父諏訪頼重が諏訪上社の現人神である大祝(おおほうり)に即位し 享禄2年(1529)まで務めたところです。
諏訪頼重の居城上原城も近くにあります。

北澤美術館本館



ひとよ茸のランプ

同左

傘に縦にガレの
サイン(ここをクリックしてください)
が見える

ガレの年譜

ガレの年譜

ガレの年譜

水仙文花瓶
ガレ

水差「暗闇の花」
ガレ

石楠花文ランプ
ガレ

睡蓮形ランプ
ガレ

石楠花文ランプ
ガレ

においあらせいとう
ガレ

蜻蛉文鶴頚篇瓶
ガレ

おだまき文台付花瓶
ガレ

木蓮文水差
ガレ

中世貴人文花瓶
ガレ

騎馬人物文耳付篇壺

伊万里写絵皿
有職文蓋物
有職文水差
ガレ

獅子文篇瓶
蜻蛉文篇瓶
獅子頭
ガレ


藤文鶴頚花器
ガレ

ひなげし文花器
ドーム

鷹に雪持松文花器
ガレ

笹にすずめ文花器
ガレ

展示室内

絵画展示

北澤美術館新館

新館は本館と諏訪湖をはさんでほぼ向かい合ったところにある。
当日は特別展としてポーラ美術館所蔵 『日本近代陶芸名作展』が開かれていた。


特別展の挨拶

富本憲吉

河井寛次郎

浜田庄司

加藤唐九郎

荒川豊蔵

河井寛次郎

とかげと矢車菊
ルネ・ラリック

蘭文花瓶
ドーム

マダガスカル
ルネ・ラリック

白熊文花瓶
ガレ工房

蝶文花器
ドーム

展示室内

展示室内

ミュージアムショップ
広いショップ内に各種のガラス器
などが販売されていた

諏訪大社


以下は、諏訪大社御柱祭ホームページ(www.onbashira.jp)からの抜き書きである。
○諏訪の信仰
諏訪大社は諏訪市の上社本宮、茅野市の前宮、下諏訪町の秋宮、春宮の4社から成り立っている。歴史は古く、延喜式神明帳(西暦927)にもその名が載っている。 御祭神は建御名方命、八坂刀売命のご夫妻で奉られている。古事記の国譲りの場面で、大国主命の息子として最後まで抵抗し、諏訪の地まで逃げてきて、幽閉された神である。 諏訪湖は一面の葦の原、此所を開拓した神として崇められている。鎌倉武士たちには戦神としても尊敬を集める。全国1万社の総本社である。 諏訪大社は、信濃国諏訪の地に 鎮座のこと「古事記」に明らかで、我が国最古の神社の一であり、古来諏訪大明神・諏訪南宮大明神・諏訪南宮正一位法性大明神などと称した。 祭神建御方命大国主命の第二子で、兄事代主命と共に大国主命を助けて、国土経営の大任に当たられた。この地の農耕・機織をすすめられた。奉祭は末裔の神氏(諏訪氏)による。 昔は狩猟の神・農業の神として神格を併有したが、神功皇后三韓征伐に神威を顕現、文永弘安の役に外敵を退けられた。由来国家鎮護の守護神として歴代武門・武将の崇敬篤く、 鎌倉幕府は社領を寄進し、武田信玄は社殿を造営・祭祀を復興し、江戸幕府はまた社領1500石を奉献し、神徳を仰いだ。大正五年官幣大社に列せられた。現在は神社本庁別表神社。

○上社本宮
御神体は守屋山という山であり、その麓に鎮座する。社殿は幣拝殿の左右に片拝殿が並ぶ諏訪造りという独自な配置。社殿は立川流の最高傑作、 天正12年(西暦1584)に諏訪頼忠が再興した。立川流2代目富昌の「笹に鶏」「粟穗に鶉」は殊に傑作だ。

○上社前宮
諏訪明神信仰の原点とも云われるお社である。建御名方命が最初に居を構えた場所でもある。建物は内御玉殿、十間廊のみ。 御頭祭と云われる諏訪大社最も重要な行事に十間廊が使用されることからも前宮の重要性が伺われる。

○下社秋宮
甲州街道と中仙道が交わる宿場町下諏訪に鎮座している。温泉が涌き出て、境内にも御神湯がある。正面には「根入りの杉」の大木が立ち、 奧に神楽殿、幣拝殿、左右片拝殿が並ぶ。御霊代が春宮、秋宮と移動する全国でも珍しい神社である。

○下社春宮
参道の途中に太皷橋が現れる。下馬橋といわれ、室町時代の造りで、身分の差無く馬から下りなければならない。境内の造りは秋宮によく似ている。

○建御名方命
別名 建御名方神、建御名方冨命など
全国一万社を誇る諏訪大社の主祭神であり、大国主命の息子とされる。参照国譲り。諏訪の地に入る時、地主神のミシャグジ(モレヤ神)と争う ミニ国譲りがあったという。妃神は八坂刀売神であり十三の御子神と共に諏訪の開拓に尽力した事から、神話の戦神的な面と開拓の神としても尊敬が篤い。全国一万社もの勧請も この二面性が影響し、戦国時代は戦神、安定期は開拓の神としていたのである。古来より竜神と考えられた為の伝承も多い。大和高木の尾掛松、お御渡り伝説などである。

○国譲り
古事記によると天照大御神は須佐之男命を葦原中国に追放したが、下界の様子が気に懸り天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)に統治させようとするが 地上があまりにも荒れている為に、使者として天菩比神(あめのほひのかみ)を派遣するが、大国主命に媚びて帰らず、天若日子(てんわかひこ)は大国主命の娘と結婚してしまう 。そこで、武神である建御雷之男神を送り国譲りを迫った。大国主命は返事を渋ったが八重言代主神は承知し身を隠された。弟の建御名方神は承知せず建御雷之男神と 信濃は洲羽(諏訪)まで戦うが遂に降伏し諏訪の地から出ない事を約束したという。

○ミシャグジ信仰
諏訪大社の御祭神「建御名方命」が諏訪に入った時、ミシャグジ神(モレヤ神)と対立し、征服したと言われている。しかし、 建御名方命はミシャグジ神を抹殺する事無く、地主神として優遇した。現在でもミシャグジ神(御社宮司神)を祭る御社は多くある。元々は関東全域で信仰が深かった神であるが、 特に諏訪の祭りの形態はミシャグジを中心としていると言っても過言ではない。
ミシャグジの「ミ」は尊敬を表している。「シャグジ」の「シャ」は「サ」の意味ではないかと推測する。 しかし、「サ」の神は農耕の性質が大きいがミシャグジ神には狩猟の性質が残っている。非常に謎の深い神である。


諏訪造りの幣拝殿

おんはしら

メドテコ(目処梃子)

木落としとメドテコの説明

信州出身の名力士
雷電為右衛門の像