高麗美術館 他の美術館一覧へ 所在地 京都市北区紫竹上岸町15番地
          tel 075-491-1192
訪問日 2009年9月24日

先日訪問した信濃デッサン館と無言館も、開設者の窪島誠一郎さんの思いがこもっていることを感じる館でしたが、この高麗美術館はそれ以上に開設者の鄭 詔文氏の思いが感じられる美術館でした。
小さな美術館ですが朝鮮文化に対する誇りと愛情がこもった美術館の作り、展示品、展示方法です。
私は数ヶ月前から日本書紀を巻一から読み進め、いま最後の巻三十・持統天皇の途中まで来ていますが、朝鮮と日本の関係の深さがよくわかります。
日本書紀は当時の為政者(天武天皇と持統天皇)の立場で編纂されているので、当時の新羅・百済・高麗などに対して日本が上位であるような書き方ですが、一部中国から直接のものもあるが先進文明の大部分は朝鮮半島にあった国々(ほとんどは百済だが)もたらされたようですね。
先日もテレビで韓国との日本の歴史学者が話し合っていましたが、鉄が日本で使われるようになってからもかなり長い間日本では鉄を作る技術がなく、朝鮮半島の国から鉄の素材を輸入していたとのことです。
その時の韓国の学者の話では、日本書紀には当時の大和政権が何度も任那・百済・新羅などに援軍を送ったと書かれているが、当時の日本には鉄の甲冑はまだ出来ておらず、鉄剣も十分な数がそろわなかったので、援軍というより百済などの軍の指揮下で戦った傭兵のようなものであったのではないかとのことであった。
しかし、私はもう少しの日本の大和政権の戦略的意図があったと思っている。
日本書紀に書いてあるような日本の直接の支配地ではなかったにせよ、日本の影響力が強かった任那・加羅などが周辺国から攻められて縮小して行き、ついには消滅してしまい、今度は是々非々での付き合いであったにせよ一応気心の知れた百済が滅亡の危機にあり、百済の滅亡は唐と新羅の脅威が直接日本にかかってくると考えて援軍を送ったのではないか?
日本の数万といわれる軍勢が百済の援軍として戦って唐と新羅の連合軍に大敗した白村江の戦いの頃、唐の動きが漏れるのを警戒して唐に留学していた日本の留学僧を、帰国するべき時になっても帰国させなかったとされるが、このことは唐も日本を戦争の相手の国と考えていたとの証左と思われ、当時の日本軍(倭軍)が百済軍の指揮下で戦ったのではなく百済の軍勢と協力してそれぞれの意思で戦略を立てて戦ったと思う。
しかしいずれにしろ、鉄器も仏教も文字も暦もほとんどが朝鮮半島の国々から伝えられたことは間違いなく、そうした文明先進国であった朝鮮と四十余年前の朝鮮の状況を対比して、もっと祖国に自信を持とうと、また同胞に自信を持ってもらおうとしてこの美術館を開設されたのではないかと思います。

この美術館を開くにいたった開設者の思いについて上記の高麗美術館のサイトでは、以下のように説明されています。

 たったひとつの朝鮮白磁の丸壺に魅かれて、古美術商の店先に立ちどまったのが四十余年前。祖国は解放されたものの、私自身、まだ帰るあてもない日のことでした。
いつかは祖国へ帰る。そう思いこんでいたものですから、みやげのひとつにしようと暖簾をくぐったことが,「今日」の始まりとなりました。
 今もなお私にとりましては帰るに帰れない祖国ですが、そこには私のふる里がございます。
六十余年の歳月はあまりにも遠く、もう私の知っているふる里ではないのかも知れません。
 しかし、高麗・朝鮮の時代にも、ふる里の平原はあのように風を走らせ、夏の洛東にはとうとうとした流れで、私たちのような童を抱き慈しんでいたことでしょう。
 美術工芸品を観ていますと、どの匠人もそうした風土の恵みをたっぷりと受け留めていたことが感じられるのです。  同胞の若き人々よ、どうか知って下さい。あなたの民族は、日々の生業そのものを文化とする豊かさをもって、生きてまいりました。あなたにもその豊饒な生命が息づいているのです。 この度の開館におきまして私が望み願いますことは、すべての国の人々が私たちの祖国の歴史、文化を正しく理解することで、真の国際人となる一歩を踏み出して頂くことでございます。
韓国・朝鮮の風土に育った「美」は今もなおこの日本で、言語・思想・主義を超えて、語りかけております。 どうぞ、心静かにその声をお聴き下さい。                                                  1988年10月25日
                                         
                          財団法人 高麗美術館  鄭 詔文
【鄭詔文氏略歴】
 1918年慶尚北道醴泉生まれ。
1960年代に実兄鄭貴文とともに「朝鮮文化社」を設立、
季刊『日本のなかの朝鮮文化』を50号まで発刊。
1988年10月に朝鮮古美術品約1700点と建物を財団に寄附し、「高麗美術館」を設立。
1989年2月肝不全のため永眠。享年70歳。

美術館パンフレット

 


各画像および説明文部分をクリックすると拡大表示されます

企 画 展

今回の訪問時には企画展として蓮の清香―君子の花・浄土の花』が開かれていた。
下のパンフレットはそのほかも含めて本年中の企画展のものである。



本年中の3回の企画展
各画像をクリックすると拡大表示されます


開催中の企画展
蓮の清香―君子の花・浄土の花



開催中の企画展(1)


開催中の企画展(2)



朝鮮美術誌と日本・中国の歴史との対比




パンフレット表紙


正面正門

普通の住戸のような入口

庭には沢山の石像がある(1)

正面正門

庭には沢山の石像がある(2)

美術館の近くのバス停

庭には沢山の石像がある(3)

庭には沢山の石像がある(4)


バス停近くの案内看板

青磁陰刻 蓮華文 梅瓶
高麗時代

白磁壺
17世紀後半