今回は松坂屋美術館にゆくことにして、開催中の展示を見たら、歌川国芳の展覧会を開いていた。
歌川国芳の浮世絵はあちこちで何回も見ているがこれほどまとまって見たのは初めてでした
展示は175点でしたが、入館して見始めると最初に人気の出た水滸伝をはじめ、風景画、美人画、役者絵、花鳥画、武者絵、風刺画、戯画、版本の挿絵、肉筆画など作域は広範で、それぞれの絵の背景を考えながら見て行くと、時間もかかり、大変疲れました。
10人程で一緒に見たので時間制限があり、2時間あまりで全部見て回りましたが、前半で時間がかかってしまい、後の方の半分くらいは30分程で見なければなりませんでした。
見終わって感じたのは歌川国芳はこんなすごい人だったのか! ということでした。
多くの分野の絵を描くにはそれぞれの分野について、専門家になるほどの準備が必要だと思いますが、つぎつぎと新しい絵を描きたいという気持ちが強かったのと、歌川国芳も30歳ころまでは絵が売れなかったのが『通俗水滸伝豪傑百八人』シリーズが評判となって売れたので、新しい分野の絵を出し続けないと売れなくなるという気持ちがあったのでそういうことが出来たのでしょうか。
いずれにしても国芳を観賞するときは、見るものをきめてあらかじめ絵の分野、背景(物語など)、人物画なら描かれた人物、風刺画ならその時代の風潮などを調べてから見るともっと楽しめるように思いました。
(ここから下はwikipediaからとったものです。)
歌川国芳(1798年 - 1861年)は江戸時代末期を代表する浮世絵師の一人であり、画想の豊かさ、斬新なデザイン力、奇想天外なアイデア、確実なデッサン力を持ち、浮世絵の枠にとどまらない広範な魅力を持つ作品を
多数生み出した。
国芳は幼少期から絵を学び、7、8歳で北尾重政の『絵本武者鞋』や北尾政美の『諸職画鑑』を写し、12歳で描いた 「鍾馗提剣図」を初代歌川豊国(1769年
- 1825年)が目に留め、文化8年(1811年)に15歳で入門したという。
国芳は入門の数年後、文化11年(1814年)頃刊の合巻『御無事忠臣蔵』 表紙と挿絵が初作とされる。学資が乏しく月謝が払えないので、すでに歌川派を代表していた兄弟子・歌川国直の家に
居候し、彼の仕事を手伝いながら腕を磨く。 また、勝川春亭にも学んでいる。 さらに葛飾北斎の影響も受け、後に3代堤等琳に学んで、雪谷とも号した。
師・豊国没後の文政10年(1827年)頃に発表した 大判揃物『通俗水滸伝豪傑百八人』という『水滸伝』のシリーズが評判となる。“武者絵の国芳”と称され、人気絵師の仲間入りを
果たした。『東都名所』などの西洋の陰影表現を取り入れた名所絵(風景画)にも優れており、美人画や役者絵、狂画(戯画)にも多くの力作を残している。
ところが国芳45歳の時、運命は一変する。老中・水野忠邦による天保の改革。質素倹約、風紀粛清の号令の元、浮世絵も役者絵や美人画が禁止になるなど大打撃を受ける。
江戸幕府の理不尽な弾圧を黙って見ていられない江戸っ子国芳は、浮世絵で精一杯の皮肉をぶつけた。『源頼光公館土蜘作妖怪図』(下記ウィキペディアの中にあります)(1843年(天保14年))は、表向きは平安時代の武将源頼光に
よる土蜘蛛退治を描いたものだが、本当は土蜘蛛を退治するどころか妖術に苦しめられているのは頼光と見せかけて実は、将軍・徳川家慶であり、国家危急の時に惰眠をむさぼっているとの批判が
込められている。
主君が危機だと言うのにソッポ向く卜部季武と見せかけ、天保の改革の中心人物、老中・水野忠邦である。
また、着衣の家紋や模様から、他の頼光四天王で碁を打っている渡辺綱は真田幸貫、 坂田金時は堀田正睦、湯飲みを持っている碓井貞光は土井利位、土蜘蛛は筒井政憲、矢部定謙、美濃部茂育を指すとされ、他の小物類も当時の人物たちとされる。そして奥にはユーモラスな
妖怪たちがいるが、実は天保の改革の被害者たちである。富くじが禁止された富くじ妖怪、歯のないろくろ首には歯なし→噺など寄席の禁止を恨んだものなど、絵のいたるところに隠されている
悪政に対する風刺が込められている。
江戸の人々は謎を解いては溜飲を下げて大喜びした。しかし、幕府はそんな国芳を要注意人物と徹底的にマークした。国芳は何度も奉行所に呼び出され、 尋問を受け、時には罰金を取られたり、始末書を書かされたりした。それでも国芳の筆は止まらず、禁令の網をかいくぐりながら、幕府を風刺する国芳に江戸の人々は喝采を浴びせた。
国芳自身がヒーローとなり、その人気は最高潮に達した。
やがて目の上のタンコブであった水野忠邦は失脚。国芳は待ってましたとばかりに江戸の人々の度肝を抜く武者絵を世に送り出していった。国芳の描いた『宮本武蔵と巨鯨』
(1848年(嘉永元年)- 1854年(安政元年))は、浮世絵3枚分に描かれたまるで大スペクタル絵画である。武蔵の強さを表現するのに相手が人間では物足りない。桁違いの鯨と戦わせること
でヒーロー武蔵の強さを伝え、国芳を称える声が満ち溢れた。
武者絵で大成功を収めた国芳は、一人の絵師として気にかけていたものがあった。国芳は『近江の国の勇婦於兼』(1830年(天保元年))で、画面左側の女性は伝統的な
美人画の技法で描かれているが、対する馬はまるで西洋画のようにリアルな立体感が陰影によって描かれている。実は国芳は当時なかなか手に入れることができなかった西洋の銅版画を
集め、遠近法や陰影の付け方の研究に励んでいた。国芳は「西洋画は真の画なり。世は常にこれに倣わんと欲すれども得ず嘆息の至りなり」と語っている。そんな国芳が56歳の時、
新たなシリーズの製作に取り掛かった。それは47人の志士が揃う忠臣蔵である。国芳はこの作品を新しく学んだ西洋画の技法で描いてみようと思い立った。この時代、公儀に逆らった
赤穂浪士を称えることはご法度であり、あくまで戯曲化され、舞台で演じられる役柄として描くしかなかった。ところが西洋画を学んだ国芳はかつてのような派手な見得を切る
大石内蔵助ではなく、実在の人物としてリアルに描こうとした。国芳が生み出した迫真のヒーロー像であったが、派手な浮世絵を見慣れている当時の人々にとって写実的な肖像画は
受け容れられず、すぐに打ち切りとなった。
国芳が赤穂浪士を描いた翌年の嘉永6年(1853年)、浦賀にペリーの黒船が来航した。安政3年(1856年)初め頃に中風を患い、4年前後辺りから人物描写に硬直味が見られ、
描線に鈍さが出て、動感に乏しい作品が目立ち始める。華々しい武者絵の世界を築いた国芳はひとつの時代の終焉に合わせるかのように文久元年(1861年)に65歳の生涯を閉じた。
墓所は最初浅草八軒町、大正初めに千住に移され、戦後は小平市上水南町の大仙寺。法名は深修院法山信士。墓石に井草と記されている。国芳には多くの門弟がおり、
「最後の浮世絵師」と呼ばれた月岡芳年や、幕末から明治前期に活躍した異色の絵師・河鍋暁斎も国芳に弟子入りしたことがあった。
パンフレットの各絵をクリックすると拡大表示されます |
山海愛度図絵 はやく酔いをさましたい |
譬論草をしへ早引と砥 |
其面影程能写絵 おかづり ゑびにあかがひ |
本朝水滸伝豪傑八百人 一個 尾形周馬寛行 |
相馬の古内裏 |
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両面相 大江山酒呑童子 |
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忠臣蔵十一段目 両国橋勢揃図 |
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奇異上下之図 マウスポインターを絵の上に置くと上下反転します 上下反転してもまた顔に見えます |
ウィキペディアの歌川国芳のページには多くの作品が掲載されており、松坂屋美術館の会場で見たようなものもあるのでここに載せた。
上の絵も同じですが、画題が大変読みにくく内容についての予備知識がないと読めないばかりか読めても意味不明です。
これらの絵が描かれた時代には、こういった絵の背景が理解できることが知識人の必須条件だったのでしょう。
よく言われるように、江戸時代の終わりころは一般の人々も文字が読め、いろいろな書物を読んで知識の豊富な人も多かったのでしょう。