国分寺(こくぶんじ)は、741年 天平13年に 聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院であり、国分寺(こくぶんじ)と国分尼寺(こくぶんにじ)に分かれます。
正式名称は、国分寺が「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」、国分尼寺が「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」と言います。
国分寺は国分僧寺(こくぶんそうじ)とも言います。
全国で建立された国分寺、国分尼寺はそれぞれ70寺院ほどでした。
現在その跡地の内、国分寺は約60件、国分尼寺は約20件が国の史跡などに指定されています。
三河国分尼寺跡史跡は1922年(大正11年)に三河国分寺跡と共に国指定の史跡に指定され、1999年度から2005年度にかけて歴史的文化遺産である三河国分尼寺跡を保存して永く後世に伝えていくために保存整備事業を実施したものです。
この事業で寺域全体の整備とともに中門と回廊の一部が復元されています。
ただ建設当時の記録が残っていないので、ほぼ同時期に建設された法隆寺の東大門(国宝)東大寺の転害門(国宝)などを参考にしたそうです。
また全国の国分尼寺跡で他に遺構が復元されているのは、千葉県市原市にある上総国分尼寺(かずさこくぶんにじ)です。
上総国分尼寺は寺域が全国の国分尼寺の中でもっともに広いそうで、三河国分尼寺跡より早い1993年に中門及び中門と金堂を結ぶ回廊が復元されました。 復元遺構の規模も三河国分尼寺跡の史跡指定面積約22.000平方米に対して上総国分尼寺の敷地面積は120.000平方米とされており、はるかに大規模です。
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国史跡指定碑 |
復元された中門と回廊の一部 |
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側方から見た中門と回廊 |
講堂跡 |
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金堂基壇の礎石 |
史跡三河国分尼寺跡 説明版 |
金堂基壇より北を望む |
掘立柱塀跡 |
講堂基壇のすぐ北の尼房跡 |
遺跡の北端から南方の金堂基壇、 中門方向を見る |
築地塀跡 |
北方建物跡とその先の掘立柱塀跡 |
ボランティアガイドの中野さん |
30年ほど前に20年間ほど法隆寺の近くで仕事をしていましたので法隆寺には何十回も行きましたが、
東大門はあまり目立たない門で三河国分尼寺の件で調べるまで国宝だとは知りませんでした。
3月の法隆寺のお会式の時はこの門から東の夢殿に向かう道の両側に植木屋さんなどが本当にたくさんの店を出していたことを思い出します。
転害門は東大寺の西の一番北にあった門で一条通りの突き当りです。
この門も目立つ門ではありませんが、創建時のいわれとか名前のいわれとかいろいろ由緒がある門です。
下の画像で見るようにふたつの門は構造がよく似ています。
東大門 門の東より見る |
東大門 屋根の軒下構造 |
東大門の東より見る |
東大門門の西より見る 西院伽藍内部より東院伽藍方向を見る |
転害門 西より見る |
転害門 屋根の軒下構造 |
養老川北岸の台地上に所在し、敷地面積約12万平方メートルの大規模な伽藍であったと言われています。
南西方には上総国分寺跡があるほか、周辺には古墳・遺跡や瓦の窯跡が多く確認されています。
近くにある国分寺同様、伽藍は大きく2期の造営時期が確認され、国分寺と同一計画で進められたと思われます。また現在明らかな諸国国分尼寺の中で、1期目の寺域は最大と言われています。
1989年(平成元年)まで行われた発掘調査で、柱の位置の確認などで主要伽藍の構造を含めた全容が解明されたことから、建物跡の完全な復元が可能とされ、これを踏まえ、かつての中門と中門と金堂を結ぶ回廊が奈良時代の工法を再現する形で復元。合わせて「史跡上総国分尼寺跡展示館」が建設され(1993年(平成5年)8月1日開館)、復元建物と共に一般公開されています。
中門 |
金堂正面の灯篭 |
上総国分尼寺全体模型 |
回廊 |
中門右の回廊から金堂基壇を望む |
三河天平の里資料館は三河国分尼寺跡に併設されていて、 展示室では、三河国分尼寺跡をはじめ、国分寺・国府跡など古代三河国の中心地であった周辺地域の様相を解説パネルや発掘調査の出土品を通して紹介しています。
またガイダンス室があり映像により古代の三河地方の歴史、復元工事の様子などを見ることができます。
ボランティアガイドも常駐されていて、ここでの説明のほか遺跡内の案内もしていただきました。
三河天平の里資料館 |
ガイダンス室 |
古代の三河地方の映像説明 |
三河国府政庁全体想像図 |
三河国府政庁、国分寺、国分尼寺の 位置関係 |
三河国分尼寺伽藍配置図 |
三河国分尼寺復元計画図 |
三河国府政庁跡にある三河国総社 |
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