三橋節子という作家については今回この美術館を訪問するまでまったく知らなかった。
それも当然で彼女が絵画を制作したのは短い期間で作品もそれほど多くないからである。
三橋節子は1975(昭和50)年、絶筆「余呉の天女」を描いて静かに35年の生涯を閉じた。今から約30年前の事である。 1939(昭和14)年、京都に生まれた節子は、京都市立美術大学(現・京都市立芸術大学)日本画科在学中より、新制作展に入選し、画壇へデビューする。
その後も日本画総合展等に次々と秀作を発表し、新進の日本画家として将来を嘱望されていた。 1968(昭和43)年、日本画家の鈴木靖将氏と結婚。二児の母となり、仕事においても家庭生活においても、順風満帆に思われたその矢先、突然鎖骨腫瘍の右腕切断という過酷な運命にさらされる。
しかし術後、節子は画筆を左手に取って奇跡的な再起をはかり、『近江むかし話』の中から、琵琶湖にまつわる伝説を主題にした、一連の絵画シリーズを生み出すのである。
手術前に描いた「湖の伝説」に続く、「三井の晩鐘」「田鶴来」「鷺の恩返し」「羽衣伝説」「雷獣」「花折峠」そして絶筆の「余呉の天女」は、逝去までの2年間に左手で描き残した作品である。これらはいずれも右手で描かれた作品を凌駕する、独特の優れた作品世界を有している。
美術館を訪問した時、御主人の鈴木靖将氏による解説が予定されていたが、九州のほうで急な用件が出来たとのことで氏の解説をビデオで見たあと学芸員の方から解説して戴いた。 三橋節子は子供の頃は大変おとなしい子で一人で絵ばかり描いていたとのことです。 その頃から野草が好きで野草ををたくさんかいたそうで、画家となってからでも野草の絵を沢山描いています。
33歳で発病したわけですが画家としては致命的とも思える利き腕の右手を切断することになった時の彼女の心情はどんなものだったのでしょうか。 でも切断手術後の悲嘆を乗り越えてふたたび左手で絵筆を握り、短期間で創作活動を再開したのです。
美術館の中に右手で書いた絵と左手で描いた絵とが分けて展示してあり、学芸員の方がどちらが左手で書いた作品か分かりますかと言われましたが、本当にまったく分かりません。
右手と左手とでは線の引き方などに差が出ると聞いていましたのでそう思ってみてもまったく分かりません 三橋節子の努力が偲ばれます。
彼女の作品の中に二人のお子さん「くさまお」、「なずな」を描いた絵が何枚もありますがその絵を見ると彼女の子供に対する愛情が良く分かります。 発病後自分の余命がながくないと分かってから特に子供に対する悲壮な愛情の作品が多いように思いました。
なお、 御長男の鈴木草麻生さんはバトミントン選手として活躍され、現在は三菱電機バトミントン部の監督をされています。
三橋節子の美術館は大津市の長等公園内にある長等創作展示館の中に併設されています。 展示作品は三橋節子の遺族のほか、多くの人々の寄贈を受たものです。
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美術館の入口の写真と美術館で販売されていた絵葉書の画像です。
美術館入口 |
池畔 |
牛頭骨のある静物 |
母子像 |
おきな草の星 |
石の詩 |
よだかの星 |
鬼子母神 |
三井の晩鐘 |
鬼子母 |
こがらしの詩 |
花折峠 |
三橋節子の絶筆 余呉の天女 |
千団子さん |
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昼食は草津市内の丑寅楼でした。 ここは歴史ある料亭で、本館と奥座敷と塀の3点が登録有形文化財に登録されています。 また大広間には鳩山一郎が滞在した時に書いたという書の額がかかっていました。
玄関横 クリックすると草津の宿場の 歴史などが読めます (少し読みにくいですが) |
玄関 |
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大広間 |
有形文化財登録証 |
鳩山一郎の書 |