トプカプ宮殿の至宝展は名古屋の前に東京、京都で開かれたが、その状況がいろいろなメディアでながれていて、名古屋で展示が始まってからもそのポスターは各所で目にしていた。 まずトプカプ宮殿がどんなものかに興味があり、オスマントルコの最盛期に集積された美術品、調度品などは、さぞすばらしい物であろうと思い是非見ようと思っていた。 しかし何やかにやと、時間がふさがり、手をとられて名古屋の展示もいよいよ終りになりそうになり、何とか時間を作って訪れることが出来た。 実際に見てみると、想像していた通りどれも素晴らしい展示物ばかりで、感激しながら見ることが出来た。 展示物ばかりでなく、会場で紹介されていたトルコ、中でもイスタンブールの町もエキゾチックでヨーロッパにはない別の文化の輝きを見るような気がした。 最近、少し治安に不安もあるようだが、この展示を見て、是非一度トルコへのツアーに参加したいとの思いを強くした。 以下の文章は、ウィキペディアと、今回の展覧会の解説文からとったものです。 |
トプカプ宮殿博物館はイスタンブール最大の名所のひとつで、毎年、世界中から200万人以上の見学者が訪れています。トプカプ宮殿の造営は、
コンスタンティノープルを陥落させてビザンツ帝国を滅ぼしたスルタン、メフメット2世によって1465年に始まったとされます。同時代の著作家は東側の棟にギリシャ彫刻や
イタリア人画家による油彩画、稀少な中国陶磁器などが集められていたと記述しています。メフメット2世が1481年に没すると、跡を継いだバヤズィット2世はこの東棟を宝物庫とし、
現在では30万件以上のコレクションを誇るトプカプ宮殿博物館の原点がこのとき誕生しました。トプカプ宮殿はほぼ4世紀にわたってスルタンの居城であり政治と文化の中心であったため、
おびただしい数の宝飾品、織物、書、豪華本、調度品などが贅を尽くした優雅な「トプカプ様式」で作られました。
帝国を統治したスルタンたちは、優れた芸術・文化をはぐくみ、類まれな文明を築き上げました。 本展覧会では絶大なる栄華を誇ったオスマン帝国文化の発信基地となったトプカプ宮殿の貴重なコレクションを通じて、オスマン王朝の黄金時代を展観します。 トプカプ宮殿(Topkapi Sarayi)は、15世紀中頃から19世紀中頃までオスマン帝国の君主が居住した宮殿です。 イスタンブル旧市街のある半島の先端部分、三方をボスポラス海峡とマルマラ海金角湾に囲まれた丘に位置するこの 宮殿はよく保存修復され、現在は博物館として公開されているが、15世紀に建設されて以来増改築を繰り返しており、現在見られる姿を保ちつづけているわけではない。
トプカプ宮殿は、大きな建物を持たず比較的小さな建物と部屋が連なり、また数多くの庭園と離れ(キョシュク《キヨスクの語源》)を持つ建造物群である。 このことから、トルコ人の中央アジアの遊牧民的な伝統に基づいた宮殿である、と説明されることもある。 宮殿のある丘は、古代ビュザンティオンのアクロポリスのあった場所にあたるり宮殿の外壁はこの丘を大きく囲み、外壁内の総面積は約70万m²ほどの面積である。 宮殿の正門は、アヤソフィアの側にある「帝王の門」(バーブ・ヒュマーユーン)である。 「帝王の門」をくぐると、「第一の中庭」と呼ばれる空間があり、オスマン帝国時代も現代も一般の人々が自由に出入りできる。 東ローマ帝国時代の遺構である聖イレーネ(アヤ・イリニ)教会は「第一の庭」の一角である。 「第一の中庭」の他の「帝王の門」内の空間は、君主の庭園や離宮が営まれており、タンジマートの指針を宣言するギュルハネ勅令が発布されたギュルハネ庭園が残されている。
外壁内の宮殿敷地の内側にある、第二の城壁で囲まれた縦横200m×400mほどの長方形の空間が、君主の私邸であるトプカプ宮殿の本体部分である。 その内部は、行政と公式行事の行われる場である外廷(ビルン)と君主の私生活の場である内廷(エンデルン)、そして女性たちの住む後宮(ハレム)の3つの部分からなる。 「第一の庭」の奥にある「挨拶の門」(バービュッセーラム)が宮廷の入り口で、かつては許された者しか入ることができず、現在はトプカプ宮殿博物館の入場口となっている。 「挨拶の門」の内側は「第二の庭」と呼ばれる、公式行事に使われた広場で、これを外廷の施設が取り巻く。御前会議の開かれた「ドームの間」や国庫はその一角に位置する。 かつての国庫は、現在は武具展示室となっており、明治時代にイスタンブルに滞在した日本人、山田寅次郎がアブデュルハミト2世に贈った日本製の甲冑が展示されている。
「第二の庭」の正面奥には「幸福の門」(バービュッサーデ)とよばれる門があり、その奥にある「謁見の間」(アルズ・オダス)と呼ばれる建造物を中心とする「第三の庭園」とそれを取り巻く施設群が内廷を構成する。 内廷には君主の私室(ハス・オダ)や、現在は有名な「トプカプの短剣」が展示されている宝物庫がある。 内廷では、数百人のイチ・オーランと呼ばれる君主の小姓たちが、私室や財宝庫などの管理役を勤め、君主に奉仕した。 小姓たちはここで幹部候補生として高度な教育を受けて、外廷の職や軍の将校などの要職につけられ、また内廷で私室長や太刀持ち役などの皇帝側近の重職に出世すれば、地方総督職などを経て、将来的には宰相にまで出世することが可能な制度が確立されていた。 小姓の供給源もイェニチェリと同じく、古くはデヴシルメによっており、カプクルのエリートコースであった。 後宮(ハレム)の入り口は、外廷の「ドームの間」の側にある「車の門」と内廷の皇帝の私室の脇にある「クシュハーネ門」があり、現代にハレムを見学する場合は、前者からハレムに入る(ただし、この他に宮廷の外とハレムを直接繋ぐ通用門もある)。 ハレムは君主の母后、妃、子供たちと、それに仕える多くの女官や宦官が暮らしており、後には帝位に就いていない皇族である君主の弟や甥たちが暮らす「鳥かご」(カフェス)と呼ばれる部屋も設けられた。
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アジア・アフリカ・ヨーロッパの三大陸にまたがる広大な領域を支配し続けた大帝国に君臨し、イスラム教徒の宗教的指導者であるカリフの地位をも兼ねた歴代のスルタンたち。この章では、スルタンたちの風ぼうとそのシンボルである花押(トゥグラ)を付した文書および馬印(トゥー)、帝国の戦力を支えたさまざまな武具、国是として帝国の支柱となったイスラムの信仰にかかわる品々により、巨大帝国オスマンと支配者スルタンの栄光の歴史を概観します。
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