名古屋市博物館  他の美術館一覧
                       所在地 〒467-0806 名古屋市瑞穂区瑞穂通 1-27-1
                                                           TEL 052 853 2655
                                                            訪問日 2019年1月14日

自宅近くを散歩中、いつも通る裏道の名古屋市の掲示板に上のタイトルのような名古屋市博物館の展覧会の開催について掲示されていました。
その時はそれほど興味を持ちませんでしたがが、帰宅してからこの月僊という画僧について調べてみると、名古屋の出身で面白い経歴の持ち主とわかり見に行きました、しかし帰宅してから見てきた内容が不十分のような気がしてもう少し人柄、人との付き合いなどもっと詳しく確認したいと思ってもう一度見に行きました。
月僊は34歳のとき、知恩院の大僧正に頼まれて、当時荒れ果てていた伊勢の栄松山寂照寺を立て直すためこの寺に入ったとのことですが、立て直しの費用はすべてみずから描いた絵を売って得たのです。
ですから描いて絵の数は正確にはわかりませんが大変多かったと思いますす。
その数の多さのせいだと思いますが、ネットに出ている月僊の絵はそんなに高くありません。
真筆とされているものでも数万円から数十万円程度で出ていますす。
いつものように会場では写真は撮れませんでしたが、展覧会のネット画像に高品質の画像がたくさん出ていましたのでこのページの画像はここから取りました。

展示品は115点でしたが、月僊の描いた作品85点のほかに、月僊が師事した丸山応挙の作品2点、同じく師事した櫻井雪館6点、谷文晁、月窓、王世貞楫次、洪応明、上官周作、李漁論定各1点、千村鵞湖2点、窪俊満11点でした。



月僊については三重県のホームージにある『歴史の情報蔵』には月僊のページがあって下記のように紹介されています。

 月僊は、寛保元年(1741)1月1日、尾張名古屋の味噌商人の家に生まれ、7歳のとき剃髪し、10代で江戸の増上寺に入りました。
月僊は、生まれつき絵が好きで、修行の傍ら桜井雪館(せつかん)という、のちに雪舟12代を称していた画家について絵を学びました。増上寺の大僧正定月は、彼の絵の才能や修行ぶりを誉めて、自分の名の一字を取って「月僊」の号を与えました。
その後、月僊は、京都の浄土宗総本山知恩院に修行することとなり、写生表現を重視した円山応挙の門に入り、与謝蕪村を尊敬し、中国の絵画をも学びました。
 安永3年(1774)、月僊34歳のとき、知恩院の大僧正に頼まれ、当時荒れ果てていた伊勢の栄松山寂照寺を立て直すため、そこの住職となりました。
その年の夏、台風被害を受けた御師春木太夫の建物の襖と屏風絵を頼まれていた円山応挙が病気のため辞退し、代わりに月僊がそれを描き上げたのです。こうしたことから、月僊の名が世間に知れ渡り、彼の絵を求める人が多くなりました。
 月僊は、そうした求めに応じて絵を描きましたが、いつも”画料は”と言って報酬を集めたので、批判する人もいました。しかし、彼は報酬を一銭も自分のものとせず、すべて寂照寺の再興と貧しい人々の救済などの社会福祉事業のために使いました。
彼が山門・本堂・庫裏・経蔵を絵で得たお金で建立したのは、寛政12年(1800)から享和3年(1803)にかけてのことでした。
文化元年(1804)から5年ごろには、月僊は1,500両を山田奉行に託し、その利子で近郷の貧しい人々を救助するようにしました。人々は、その恩徳を讃えて、この基金を「月僊金」と呼びました。さらに、彼は橋を架けることや道路の改修にも多くの資金を出したと伝えられています。
 月僊は、山水画や人物画を得意とし、数多くの作品を描きました。彼は、師事した先輩画家たちの画風や中国の絵画など様々な絵画表現を研究して、自分自身の表現を形成していったようです。また、司馬江漢が著した『西遊日記』中の逸話では、長崎旅行の途中伊勢を訪れた江漢がはじめて月僊と対面したとき、月僊は洋風画にも心ひかれ、酒や肴を出し、「蘭画」の制作方法を聞こうとしています。
 多くの絵を描き、社会福祉事業に尽くした月僊も、病には勝てず、文化6年(1809)1月、寂照寺で亡くなりました。  

三重県のホームページには月僊の画風などについての記事(ここをクリックすると表示されます)があります。



 寂照寺(所在地:516-0034 伊勢市中之町101)は、徳川家康の孫、千姫の菩提所として、延宝五年(1677)に知恩院第37世寂照知鑑上人によって創建された。以来その位牌・遺物を安置して供養してきた。  無旦那寺のため、後に財政的に窮乏するが、安永三年(1774)僧月僊が来て、描いた絵を売り寺運を回復する。  なお、千姫のお墓は知恩院にあります。
登録有形文化財
1 山門
  この山門は寛政9~文化2年(1797~1805)に月僊上人によって建立された遺構です。薬医門としては規模も 大きく、姿も勇壮で、細部の意匠にも江戸時代後期の特徴がよく表れています。
2 観音堂
  観音堂の建立年次は詳らかではありませんが、様式から判断すると19世紀中頃のものと推察され、内部に千姫(天樹院)の縁により飯沼の弘経寺より寄進された観音立像を祀ります。
3 金毘羅堂
  金毘羅堂は棟札により天保10年(1839)の建立であることがわかります。
全体を和様でまとめ、近世後期からの寺観を形成する祠堂として重要な遺構です。
三重県文化財
1 経蔵
  寂照寺は、明治14年(1881)火災にあうが、幸いにして山門と経蔵だけは焼失をまぬがれた。 特に経蔵は、享和元年(1801)月僊創設以来のもので、八角回転式の輪蔵、中には鉄眼の一切経を収めており、県の文化財に指定されている。



会場には仏涅槃図が4点展示されていました。
下の2点の涅槃図も似ていますが、この他に展示されていた涅槃図も良く似ていました。 



月僊「仏涅槃図」
寂照寺蔵

月僊「仏涅槃図
名古屋市博物館蔵」



月僊「列仙図賛」
名古屋市博物館蔵

月僊「法然上人像」
知恩院蔵

月僊「関羽図」
名古屋市博物館蔵

月僊「恵比寿図」
三重県立美術館蔵

月僊「釈尊図」
個人蔵

月僊「朱衣達磨図」
個人蔵

月僊「秋景山水図」
個人蔵

月僊「鍾馗図」
水戸市立博物館蔵

月僊「西王母図」
個人蔵

月僊「西王母図」
三重県立美術館蔵

月僊「僧形立像(伝自画像)」
三重県立美術館蔵

月僊「東方朔図」
三重県立美術館蔵

月僊「馬師皇図」
個人蔵

月僊「黄石公ー張良図」
隨念寺蔵

月僊「厳上錦鶏図」
寂照寺蔵
 
月僊「木曽路図」
個人蔵
 

月僊「百盲図巻」部分  知恩院蔵



   丸山応挙「布袋図」   
名古屋市博物館蔵

櫻井雪館「寿老人ー布袋図」
水戸市立博物館蔵

櫻井雪館「寿老人ー布袋図」
水戸市立博物館蔵