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訪問した日には下の写真にある生誕百二十年『川端龍子展が開かれていた。
今回も日本画家の市野鷹生先生が同行し、行きと帰りのバスの中で資料を回覧しながら解説していただいた。
行きには、川端龍子という画家の芸術の特長などについて先生の考えを交えながらの説明があったが、帰りにまず話されたのは、これほど多くの大作が展示されているとは思わなかった、数も多くまた大きな作品が多いので本当に疲れたとのことでした。
先生は生前、龍子にお会いになったことがあるとのことでしたが、たいへん小柄な方で作品の迫力はどこから来るのかと思われる程だったそうです。
川端龍子については、下の写真のパンフレットの裏面にかなり詳しく書かれているのでここに転記します。
川端龍子は、1885(明治18)年、和歌山に生を受けました。幼少より絵を描くことに興味を抱いていた龍子は、 家族とともに1895(明治28)年に上京した後、画家を志すことになります。日露戦争の開戦の年となった1904(明治37)年、 白馬会洋画研究所に入り、ついで大平洋画研究所において本格的に洋画を学ぶとともに、『ハガキ文学』『東京パック』といった雑誌の挿絵を描き、 明治年間を通して挿絵画家として活躍しました。1913(大正2)年、洋画を学ぶために龍子はアメリカへ渡りますが、この渡米が契機となり、 翌年の帰国後日本画に転向することになります。この年、1914(大正4)年には、日本美術院が再興され、龍子はこの再興院展を舞台に 日本画家としての地歩を固めてゆくことになります。再興日本美術院の同人となった後も、「繊細巧緻」が主流であった院展の作風に飽きたりず、 展覧会と言う「会場」において、観衆である大衆に訴える力を持つ作品を志向し、大作主義による「会場芸術主義」を掲げ、その実践の場を得るため 美術院を脱退し、1929(昭和4)年、自ら日本画団体・青龍社を創設しました。
本展では、その生誕から120年という節目にあたって、80歳でよを去るまで、生涯にわたるまで精力的に活動を続けた龍子の画業を、 代表作を通して振り返ります。近代日本画史上特異な活動を行い、「異端」とも評された龍子の足跡をご鑑賞ください。
市野先生の解説によると、上記のように1913(大正2)年に渡米し、帰国後、日本画に転向したが、渡米中、ボストン美術館にて鎌倉期の絵巻の名作「平治物語絵詞」を見て感動したことが、日本画転向のきっかけであったという。
下のいくつかの作品のほかに、もっとはるかに多くの作品が展示されており、そのうちのかなりの数に作品が大田区龍子記念館蔵なっていたが、龍子自身が1963(昭和38)年に、喜寿を記念して、長年住んだ大田区に龍子記念館を設立して自作を展示し、当初は社団法人青龍社が運営していたが、1990(平成2)年、同法人の解散とともに土地建物と龍子の作品は大田区に寄贈され、 1991(平成3)年からは大田区立龍子記念館として運営されていることによるものである。
なおこの生誕百二十年『川端龍子展は昨年10月29日から12月11日まで江戸東京博物館でひらかれていた。

特別展のパンフレット

美術館の建物


正面玄関

正面玄関

正面玄関

平面図
黄色の部分が展示室

エントランスロビー

中庭に面した通路

学芸員の説明

中庭

中庭の屋外展示作品

中庭の屋外展示作品

川端龍子の作品

今回展示されていたものの一部(上のパンフレットからコピー)と
市野先生に見せていただいた龍子の本のあったデッサン


新樹の曲 昭和7年
大田区立龍子記念館保管 川端捷良氏蔵

1天護持 昭和2年
大田区立龍子記念館蔵

佳人好在 大正2年
京都国立近代美術館蔵

源義経(ジンギスカン) 昭和13年
大田区立龍子記念館蔵

刺青 昭和23年
大田区立記念美術館蔵

夢 昭和26年
大田区立記念美術館蔵
平泉中尊寺の藤原三代のミイラ

盗心 大正12年
東京国立近代美術館蔵
玉蜀黍畑の中で盗った玉蜀黍を
抱えて隠れている少年の不安を
表現している


中国で描かれたデッサン

中国で描かれたデッサン

中国で描かれたデッサン

常設展示 小倉遊亀・菱田春草



小倉遊亀
観自在 昭和43年

小倉遊亀
紅梅白壺 昭和46年

小倉遊亀
兄妹 昭和39年

小倉遊亀
姉妹 昭和43年

菱田春草
落葉

美術館の外部庭園など

美術館としてはそれほど大きくはないが、周辺はたいへんよく整備されていて気持ちがよかった。      近くに住む皆さんにとっては、散策など心の休まる場所だと思う。


玄関正面

左の画面の右方向

上の画面の左方向

側面方向から美術館を見る

敷地内には池もある

白いタンポポ