1987年4月、名古屋鉄道が財団法人杉本美術館を設立し開館しました。
杉本健吉の作品、約5,000点が納められており、これらは、杉本が売らずに所蔵していたものとのことです。
杉本健吉が財団法人杉本美術館に作品を寄贈し、当美術館はできました。
美術館は開館時の本館と1994年4月に完成した新館からなっている。
本館には広い展示室が2室と小部屋が一室、新館にはコンパクトな展示室が3室ある。
本館展示室には奈良を描いた作品が多数展示されていて、永く奈良に住んだ私には懐かしい風景も多くみられました。
奈良の水門町の絵など知っている人でないとどこだかわからないと思いますが、古い奈良の本当の中心地で、わたくしの知り合いがこの場所の購入を持ち掛けられたが、2階までしか建てられず、容積率率が20%だと言っていました。 ここに入江泰吉の家があったので杉本健吉も訪れたのでしょう。
新館の3室はそれぞれ追憶、曼陀羅、おもちゃ箱と名付けられており、そんな雰囲気の部屋になっています。
私は杉本健吉は画家だと思っていましたが、この美術館を見て本業は画家だったのでしょうが、焼き物の塑像、壺、器、木彫もあり、絵画でも油彩、水彩、墨絵など何でもある、多才といいうか、多芸というかエネルギッシュな人だったんだなと思いました。
入り口前 |
同左 |
新館 おもちゃ箱 |
本館と新館をつなぐ通路 |
本館展示室・大部屋 |
本館・小部屋(?) |
新館 おもちゃ箱 |
新館 曼陀羅 |
新館 追憶 |
曼陀羅内部 両界曼陀羅 |
入館券 |
1905年愛知県名古屋市生まれ。1923年に旧制愛知県立工業学校(現・愛知県立愛知工業高等学校)を卒業後、加藤静児のアドバイスにより図案家、今でいうグラフィックデザイナーとして鉄道会社を中心としたポスターや商業デザインの仕事を手がける。
1925年に京都に出向き岸田劉生の門下に入る、26年に「花」で春陽会に初入選。その後、吉川英治作の『新・平家物語』・『私本太平記』等の挿絵を担当し絶賛を得る。 この時の経緯をどこかで読みましたがそこにはこんな書き方がしてありました。
《 杉本健吉は週刊朝日連載の吉川栄治の新平家物語の挿絵を描きましたが、この挿絵は36回目までは守屋多々志が描いたそうですが、吉川栄治の意識にしっくりこず、
守屋の師匠の前田青邨の手配で37回目から杉本健吉に変わったそうです。 両者の画風を見ると納得できるように思いますがいかがでしょうか? なお、新平家物語が単行本で出されたときは36回目までの分もすべて書き直したそうです 》
1949年、東大寺観音院住職上司海雲師の知遇を受け 、観音院の古土蔵をアトリエにしてもらい、奈良の風物を描く。奈良では志賀直哉、入江泰吉らと交流する。1971年、画壇(国画会)よりの引退を表明。しかし、画家としての創作は続ける。
1987年、名古屋鉄道により、愛知県知多郡美浜町美浜緑苑に杉本美術館が開館し、売らずにいた絵画が収蔵された。晩年まで毎週、同美術館に足を運び、美術館内に設けられたアトリエで、デッサンや来館者との歓談を楽しんでいたが、
2004年肺炎のため死去(98歳)。
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奈良大和路・春夏秋冬の館内案内表 図をクリックすると拡大表示されます |
奈良大和路・春夏秋冬の館内案内裏 図をクリックすると拡大表示されます |
あわれ月夜かな 新・平家絵物語屏風から 水彩 |
角樽に牡丹 油彩 |
正倉院雪景 墨 |
聖徳太子御影 紙本彩色 |