谷川士清は江戸時代の中期、町医者をしながら国学者として大変大きな業績を残した人です。
資料をいろいろ見ると残した業績の量も質も大変素晴らしいものがありますが、残念ながら谷川士清について私は名前以外はほとんど何も知りませんでした。
谷川士清と本居宣長は年齢は谷川の方が40歳ほど上ですが、大変よく似た環境で育ち国学者となってからも良く似ています。二人とも代々の医者の家で育ち、20歳台で京都に修行に行き5年ほどで帰郷して医師を開業しています。
谷川士清は日本書紀の注釈書『日本書紀通証35巻』を書きあげました。
一方本居宣長は『古事記伝44巻』を完成します。
私は両方とも読んでいませんのでどちらがすごいか、自分では判断できません。 しかし皆さんもご存知のように古事記伝の方がはるかにすごいことは万人の認めるところですね。
15年ほど前に古事記についての講義を一年ほど受けましたが、その時の先生は本居宣長を心から尊敬されておられたことがよく分かりました。 先生も少しは名の知られた古事記の研究者でしたがその先生がそれほど尊敬されることで本居宣長、また古事記伝のすごさを知りました。
何かに書いてありましたが、『日本書記は完成以来多くの人がその研究に携わってきたが、そのすべてを足しても本居宣長の古事記伝一点にかなわない、 書紀の不幸は本居宣長に匹敵する日本書紀研究者が出なかったことだ』と書いていました。
こんなことから谷川士清の業績として一番評価されているのはわが国で初めての本格的な五十音順国語辞書『和訓栞』93巻をまとめたことです。
また、賀茂真淵は谷川士清を全く認めていなかったようです、
賀茂真淵と本居宣長との出会いを描いた「松阪の一夜」という話があるらしく、戦前には教科書にも載っていたとのことです。 賀茂真淵が伊勢神宮参拝のおり松阪に宿泊し、ここを本居宣長が訪ねて一夜語り明かし、本居宣長が古事記の研究に取り掛かるきっかけをもらったとのことです。
この時賀茂真淵は70歳、本居宣長は30歳あまり、賀茂真淵はすでに万葉集などで国学の大家でしたが、賀茂真淵は本居宣長の学識の広さに驚いたそうです。
本居宣長の賀茂真淵とのこういった関係からか、賀茂真淵存命中は谷川士清の業績に厳しい評価をしていたようです。
しかし、真淵没後は親しく交わり『古事記伝』や『和訓栞』などの著作に対しては忌憚なく意見を述べ合い、蔵書の貸し借りも頻繁だったとのことです。
谷川士清の旧宅は伊勢と伊賀上野を結ぶ伊賀街道沿いにある。 伊賀街道は現在はさびれた道ですが、かっては伊勢、伊賀両国を支配した藤堂高虎にとって重要な官道であったとのことです。
名前を聞き忘れましたが 津市の職員で学芸員では ないとのことでした。士清 に心酔されているようで 丁寧に解説して頂きました |
士清の業績資料 |
近隣の士清関係の場所 |
旧宅内 |
考古資料 |
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谷川士清がここに住んだことは確かなようですが、その後荒廃していて何回も改装されたようで、昭和30年代までは実際に住宅として使用されていたそうです。
現在の姿は昭和52~54年に立て直されてからのもので、過去の記録などを参考にしたようですが、当時の外観も内部の構造も正確には分かっていないようです。
なお、ここは国の史跡に指定されています。
谷川士清旧宅正面 |
伊賀街道 |
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左 立替前の姿 右 立替後の姿 |
津市の公的部署が発行していると思いますが、『津の歴史散歩ガイド』というもの何部かあり、谷川士清についてのかなり詳しい解説があります。
字が小さくて見にくいようでしたら画像をクリックすると見やすくなります |
2009年、谷川士清生誕300年記念事業としてまとめられた谷川士清について紹介する資料です。
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