丹波立杭焼は日本六古窯の一つとされる。
日本六古窯(にほんろっこよう)とは、日本古来の陶磁器窯のうち、中世から現在まで生産が続く代表的な六つの窯の総称で、
朝鮮半島や中国からの渡来人の技術によって開始された近世からの窯とは区別される。
これら六古窯は下記の窯場である。
(このことについては、同行された坂野慎司先生から詳しい説明があった)
瀬戸焼:愛知県瀬戸市
常滑焼:愛知県常滑市
越前焼:福井県丹生郡越前町(旧織田町宮崎村)
信楽焼:滋賀県甲賀市(旧信楽町)
丹波立杭焼:兵庫県篠山市今田町立杭(旧多紀郡今田町)
備前焼:岡山県備前市伊部
小山 富士夫は日本六古窯など忘れられかけていた日本の古い窯を再評価し世の中にその価値を広めた功労者である
小山 富士夫(こやま ふじお、1900年3月24日-1975年10月7日)は陶磁器研究家・陶芸家である。
岡山県浅口郡玉島町(現・倉敷市玉島)出身で、東洋陶磁研究所所員、東京帝室博物館(現・東京国立博物館)、文化財保護委員会調査官などを務めた。
また、日本陶磁学会や日本工芸会の設立に尽力、東洋陶磁学会設立、委員長就任
実証的東洋陶磁研究を確立した研究者で、茶器を始め多様な作品を造っている。
丹波古陶館は能面、能衣装など”能”に関する資料を展示する能楽資料館が併設されている。
両館を鑑賞後、江戸時代そのままの姿で「妻入(つまいり)商家」が立ち並ぶ河原町通( 国重要伝統的建造物群保存地区 )を散策した。
今度はじめて篠山を訪れたが、古い建物などが多く保存されており落ち着いたいい街で、また行きたい町の一つです。
丹波古陶館パンフレット(1) |
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丹波古陶館の由来 |
正面 |
庭から展示室を見る |
正面(2) |
正面(3) |
中庭(1) |
中庭(2) |
中庭(3) |
中庭(4) |
画像をクリックすると拡大表示されます |
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入口 |
能楽資料館パンフレット(1) |
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能楽資料館パンフレット(2) |
甫閑作 江戸時代中期 |
黒式尉 作者不詳 室町時代初期 |
父ノ尉 日光作 鎌倉時代末期 |
小面 越智吉舟作 室町時代初期 |
大飛出 井関次郎左衛門親政作 室町時代末期 |
小尉 甫閑作 江戸時代中期 |
篠山城下町誕生の契機である篠山城築城は、徳川家康が慶長5年(1603)に関ヶ原の戦いに勝利を収めたことが発端です。 家康は戦勝後の慶長8年(1603)に征夷大将軍となり、江戸に幕府を開きますが、大坂城には豊臣秀頼が健在で
、豊臣家ゆかりの諸大名たちもその勢力を温存していたことから、大坂城を包囲する形で近畿の主立った城に譜代大名を配置する必要がありました。
当時の篠山は京街道(近世山陰街道)の守りの要と位置づけられ、大坂城と西日本の諸大名たちを分断するのに格好の地であったことから、 家康は実子松平(松井)康重を常陸国笠間城から丹波国八上城へ移封し、新たな城、篠山城築城を命じました。
その後、武家屋敷、寺院、町屋などの配置は順次計画的に整備され、篠山の城下町は篠山藩の中心として完成されてゆきました。
戦前の一時期を除き、城下町の中には今日まで鉄道が敷設されたことはなく、日本の各都市に特有の駅前を中核とする市街地開発や無秩序な建築物の乱立といった状況とは無縁で、また地域住民の方々の町並み保存に対する意識の高さもあって、歴史的な町並みが現在もよく残されています。
今回行った篠山城の東南方向の小川町から河原町は、城下への出入り口に位置し、町屋建物が建ち並ぶ地区です。城下町整備の一環として引き込まれた街道の両側に、
瓦葺中二階の妻入町屋が数多く建ち並び、近世から近代にかけての商業的発展の様子を現在に伝えています。これらの建造物の在り方は、 他町と比べ改造の度合いが著しく低く、篠山城下町の歴史的景観を最もよくとどめた地域となっています。また、城下町形成時に防御施設として建てられた
真福寺や観音寺、また藩主の菩提寺であった本経寺が残り、町並みの構成要素として貴重なものとなっています。
高田家住宅 |
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古林家住宅 |
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