富本憲吉の名を初めて聞いたのは、もう40年以上前奈良県内で勤務し始めた時です。
その後もこの記念館のある安堵村が私が住んでいた町から近かったこともあり、富本憲吉記念館の近くも何度か通ったことがある。 そのころは富本憲吉が有名な陶芸家であることは知っていたが、私の陶磁に関する興味は有田、伊万里、鍋島、瀬戸、など古い産地の物にあったので、いわゆる陶芸家の作品にはあまり興味がなく、記念館を訪れたことはなかった。
しかし美術館めぐりでいくつかの美術館で富本憲吉の作品を鑑賞する機会があり、その作品が素人には理解しがたいような色、形のものではなく、誰でも身近に置いておきたくなるような作品であることが分かってきました。
そんなことで今回の美術館めぐりでは富本憲吉の記念館とはどんなところか期待して訪れました。
行ってみて本当にここが奈良の昔の農村の雰囲気の残っているいい環境にあると思いましたし、前回訪れた奈良市写真美術館の近くに奈良時代の皇女などの遺跡、神社などがあるのをいくつも見ましたが、この記念館の近くにもそのような古代の雰囲気のあるところがありましたし、地図で見るとそんなところが沢山あるようです。
日本書記には、天武天皇の頃、毎年のように龍田の風神(かぜのかみ)と広瀬の大忌神(おおいみのかみ)を祭ったことが記されているが、この広瀬神社も比較的近いところにある。
広瀬神社については奈良に住んでいたころ、車でこの近くをドライブしていて田園地帯に大きな神社があったので寄って見たことがあるが、境内は広いが参詣する人は殆どないようで、その時はなぜこんなところにこんな大きな神社があるのかと思いましたが、日本書紀を読んで理由がわかりました。 一方、龍田神社は風神という分かりやすい神であることとJR
の駅に近く、初詣とか神社の例祭の時にはJRのダイヤも便宜をはかってくれることもあって、現在も参詣に人が多くよく整備されています。 なお現在どうなっているかわかりませんが、以前は風邪薬をつくっている製薬会社が風神を風邪薬の宣伝に使うことで、毎年かなりの玉串料を納めていただていると当時の宮司さんに聞いたことがあります。
記念館の近くにある「安久波(あくなみ、飽波)神社」は、上宮遺跡、および、広峰神社と共にここを聖徳太子の「飽波宮跡」とも伝えて、767年(神護景雲元年)4月26日
稱徳天皇が行幸されたところです。
なお、「安久波神社」の前の道は、聖徳太子が従者の調子丸を連れて、愛馬の黒駒に乗って斑鳩宮から飛鳥の小墾田宮へ通われた太子道で、境内の南側に太子がお座りになった「御幸(みゆき)石」があり、
本殿の裏に、太子ゆかりの影向石(ようごうせき)もあります。
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記念館正門 |
この方に説明を聞いた |
館内で一休み |
富本憲吉略年譜 |
同左 |
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詳しいことは分からないが祭神を 含めかなりの変遷を経た神社のようである |
安久波(あくなみ、飽波)神社 |
バスを降りた安堵町役場 |