大阪市東洋陶磁美術館 他の美術館一覧
                           〒530-0005
                                大阪市北区中ノ島1-1-26
                                    (中央公会堂東側)
                                        tel 06-6223-0055

この美術館には10年余り前にも来たことがあります。
その時は開館25周年記念として[特別展] 『安宅英一の眼』が開かれており、この美術館の根幹をなす高麗青磁の世界的なコレクションを作り上げた安宅栄一がどのようして一点一点の美術品を見極め、手に入れていったかを、蒐集のきっかけ、大量の名品の購入、購入品のまとめなど各課程おいての苦労工夫などを、一点一点の購入のエピソードを交えながら整理し、展示されていました。
安宅産業の破綻の経緯、安宅コレクションの処分について各方面のは心使いにより、コレクションがこのようにまとまって保存されることになったことなど、美術館訪問前から各方面から知る機会が多くありました。
そういった予備知識を持って鑑賞したこともあって、時間を忘れてじっくり見たことを思い出します。
今回の特別展は『高麗青磁ーヒスイのきらめき』でした。
高麗青磁が使われた場面、用途、形状といった切り口で整理して展示されていました。
こういった特別展の性格のため、前回は殆ど安宅コレクションを構成する高麗青磁のみの展示でしたが、今回はほかの美術館で所蔵している優れた高麗青磁も全体像を理解するために借りて展示されていました。
今回の特別展示のポスターにも、入場券にもまたネットの目玉にも使われており、このページのトップタイトルにも使っている作品は『重要文化財・青磁陽刻 龍波濤文 九龍浄瓶』というもので、奈良の大和文華館から借用したものです。
これはやはり10年前大和文華館を訪れた際見ています。
確かに高麗青磁の全体像と本当のすばらしさを知ることができたという点ではよい機会を経験できたと思いましたが、東洋陶磁美術館のホームページで「東洋陶磁美術館としては約30年ぶりに満を持して開催する高麗青磁の一大特別展となります。」というのは少し言い過ぎのように思いました。  30年前の特別展を調べましたがどれを指しているのか分かりません。

美術館で高麗青磁につてのビデオが放映されていましたが、これが美術館のホームぺージにも載っていました。
ビデオの題名は”高潔−ヒスイが奏でる調べ”です。
ここをクリックしてスタートボタンを押してください。

このページを作っていて美術館の正面右の銅像の主は誰かと思いました。
設置位置から美術館開館の功労者かと思いましたが全く違いました。
この人は第7代大阪市長 関一(せきはじめ)でした。
関は社会政策学者で東京高等商業学校教授(現在の一橋大学)から大阪市に入り、社会政策学、都市計画学の知見を活かし、地下鉄建設、大阪港建設、御堂筋拡幅、市民病院の開設、市立大学の開設、大阪市中央卸売市場の開設など現在の大阪市の基礎を築いた偉大な市長だったそうです。
関の市長時代(1923年〜1935年)、大阪市の人口が一時東京を上回りました。。



地下鉄 淀屋橋から美術館に
向かう途中にある大阪市役所

地下鉄 淀屋橋から美術館に
向かう途中にある
水晶橋のたもと

大阪市東洋陶磁美術館
左の木立の中に見える銅像は
第7代大阪市長 関 一

美術館の真向かいの
中之島図書館

東洋陶磁美術館の
設備の見どころ

東アジア窯址分布図

中国 朝鮮 日本の年表対比




画像と説明文をクリックすると拡大表示されます

高麗王朝は918年に王建により建国され500年近く続いたのち1392年に滅びました。
高麗青磁の起源としては遅くとも10世紀までに、中国の越窯の青磁の技術が高麗に伝わって発展したといわれています。
高麗青磁は仏教と喫茶という二つの文化の織り成す中で発展してゆきました。
 12世紀初めに高麗を訪れた北宋使節団の一人徐競は滞在中に見聞したものを「宣和奉使高麗図経」という書に書き残しました。 この書は当時の高麗の文化を知るうえできわめて貴重な資料とされています。
この中で徐競は『青磁は「翡色」とも呼ばれ、色・艶とも殊の外美しく、唐、五代の越窯青磁や北宋の汝窯青磁に類するもの』と述べている。
12世紀ころ最盛期を迎えた高麗青磁も高麗王朝が滅亡するのとほぼ時を同じくして勢いを失い、他の様式の陶磁器,粉青沙器などに代わってゆき、14世紀には忘れられてしまいました。
それから500年ほどの時を経て再び高麗青磁が人々の前に姿を現したのです。
1880年代の初めころ副葬品として墓に埋葬されていた高麗青磁が雨で崩れた墓から露出し、それが釜山の日本人居留区に持ち込まれたとのことです。
それをきっかけに墳墓のほか鉄道建設、土木工事などで大量の高麗青磁が発掘され、再び脚光を浴びることになったのです。
またイギリスからソウルに来ていた宣教師で外科医のホレイス・ニュートン・アレンは朝鮮半島に駐在中から高麗青磁の収集に努め、膨大なコレクションを形成しました。 現在このコレクションはアメリカのフリーアが購入しワシントンのフリーア美術館に収蔵されています。
日本の山吉盛義も京城日本公使館に勤務していた1896年から1899年の間に本格的なコレクションを形成し、『古高麗美痕』を刊行しました。

一方その美しい翡色の高麗青磁を再現しようとする試みも進み、1915年頃日本人が再現に成功し、李王家美術工場で高麗青磁に遜色のない青磁がを作ることが出来るようになりました。
李王家とは、高麗王朝の武将・李成桂が建てた朝鮮王朝のことです。
日本統治時代になっても、李王家は資産、歳費の支給を受け、王家とし処遇されました。
日本統治時代から李王職美術品製作所の陶磁部と工業伝習所の陶器課、日本人が運営する陶磁工場などによって高麗青磁の本格的な再現が成され日本人の好みに合わせた高麗青磁として製作されました。
ただこの事実は現在の韓国ではあまり評価されず、韓国としての再現の試みが今も続けられているようです。
韓国の高麗青磁博物館(韓国全羅南道康津郡大口面)のホームページには韓国での高麗青磁の現状が書かれています。
また同じ高麗青磁博物館の別のページには具体的な韓国としての再現の歴史、製作技法、再現作品などが出ています。
ここには過去の日本が進めた再現に対する批判も書いてありますので、クリックして読んでみてください。
languageに日本語の項はありませんが日本語で書いてあります。

また、朝鮮の一青年研究者ハン・スギョンが刻苦努力の末,1934年に再現に成功したと伝えられていますが、その現品は残念なことに、見つかっていないとのことです。



高麗青磁の再発見と再現について

近代における高麗青磁の
「再発見」と「収集」

10世紀ころの越窯と開城

宣和奉使高麗図経

フーリア美術館
アレン収集の高麗青磁を展示する
ピーコックルーム

北宋使節団の徐競の言葉



下記水注の入っていた箱

高麗青磁に劣らぬ青磁を作り出した
李王家美術工場の製品箱

青磁象嵌菊蓮華文瓜型水注
高麗時代12世紀後半〜13世紀前半
H19.9xW22.1x15.4


今回新たに再現品であることが
判明した作品
青磁象嵌菊牡丹花文瓜型水注
1915〜20年代頃李王家<職>
美術品製作所<工場>
H19.9xW23.5x13.2

朝鮮でハン・スギョンが高麗青磁の
再現に成功したことを伝える新聞記事

高麗青磁再現作品

再現品の展示室


喫茶の風習は7世紀半ばの中国から新羅時代の朝鮮半島に伝わったとされる。 はじめは仏教関係で嗜まれていたが8世紀の前半には次第に知識人階級まで浸透していった。
高麗時代は茶文化の最盛期であり、王族から一般庶民までが日常的に茶を飲むようになり、茶店も出来、茶詩も数多く残され、重要なもてなしの文化となっていった。
こうした茶の文化が高麗青磁を生み出す原動力となって、10世紀には茶器としての青磁が中国からの輸入に代わって朝鮮半島内で焼かれるようになった。
「宣和奉使高麗図経」の「茶俎」の条によれば、儀礼の茶具は当時の宋の茶法にならい、そして宋の茶道具や高麗青磁の椀が使われたという。王はまた庭園を備えた楼閣や亭で飲茶をし毅宗(1146〜70)の養恰亭の場合は、その屋根が青磁の瓦で葺かれていたという。




左端は初期高麗青磁断片 10世紀
その他は青磁椀

水注

青磁陽刻菊花文輪花型椀

各種盞・托

白磁瓜型水注と承盤

青磁輪花型承盤


高麗王朝では支配体制が確立し、体制が安定すると、その体制の中心となる門閥貴族を中心に華麗な文化が花開いた。
ここでも具体的な当時の事情は「宣和奉使高麗図経」の記述によることになるが、高麗の人々は儒学の教養を持つ文臣官僚を尊び、民間でも教育が盛んであったという。
高麗の人々は詩を詠み、書画を愛好し茶や酒をたしなむ優雅な生活の中で、高麗青磁の水滴、硯、枕、文箱などを愛用していた。
徐競が「宣和奉使高麗図経」で述べているのは、「高麗青磁が近年とみに製作技法が進み、美しくなり、宮廷儀礼などで用いられる器皿として塗金、銀器以上に高麗青磁が貴重なものと見なされるようになった」としている。
12世紀高麗王朝が最盛期を迎えるころ、貴族たちの生活は贅沢になり華麗な器を使うようになっていった。
こうした高麗貴族を中心とした貴族文化が多種多様な器形、文様の発生・発展を促した。
高麗青磁では特に、飲酒に関連する水注、梅瓶、瓶、皿、椀、杯、盞・托などの器形が多くみられる。
また、高麗の女性たちが使用したと思われる化粧箱、盒、油壷などもみられる。
このように多くの種類が多数作られ、当時の生活の各場面を豊かにするために使用されていた高麗青磁は、持ち主の死後、墳墓などに副葬されることが多かった。
こうして副葬された高麗青磁が100年余り前からまた世に姿を現したのです。



   青磁彫刻童女形水滴
       青磁彫刻童子形水滴

 青磁透彫唐草文箱

各種青磁盒
小さな容器であるが、
化粧品などを入れたと思われる

各種青磁油壷
髪油を入れたと思われる

青磁獅子型枕

各種水注
酒器として用いられたものと思われる

青磁象嵌辰砂彩牡丹文壺

青磁鉄絵宝相華唐草文壺


高麗王朝を開いた王建が残した遺言ともいえる『訓要十条』には『国家の大業は必ず諸仏の護衛の力によらねばならず』とあり、仏教が高麗の国教となった。
国の安泰や繁栄を祈念する儀礼が高麗の仏教の中心を占め、契丹や元が高麗に侵攻した時には、その撃退を祈願して、繰り返し大蔵経(経板)が製作された。
都の開城には靖国安和寺や広通普済寺などの大寺院が建立され、国王が主催する独自の仏教行事も行われ、儀礼の空間を飾る仏画が製作され、仏壇を飾る浄瓶、香炉、花瓶などの仏具も佳麗を極めた。
高麗青磁はそうした祈りの場を荘厳する仏具も数多く知られている。
宣和奉仕高麗図経によれば、「蓮は仏が足を載せるところだからという理由で、だれも蓮の実を摘み取ろうとせず、また仏の教えを重んじ殺生を戒め、国王、大臣でなければ豚や羊を食べず、屠殺も苦手だという。
(第23巻 風俗2『土産』、『屠宰』) いずれも高麗人が仏への信仰が深かったことがうかがえる。
高麗では仏教以外の様々な宗教、信仰も排斥されることがなかった。
道教は国家のために除災招福するものとして国家の手厚い保護を受けた。
このため道教の儀礼も盛んに行われ道教に関連する高麗青磁も多く遺されている。



青磁羅漢像
羅漢はサンスクリット語のARHAD
を音訳した語で悟りを得た
修行者を指す

青磁象嵌六鶴文陶板
用途についてはよくわかっていないが
宮殿、大寺院などの建築装飾用
との説がある

青磁陽刻龍波濤文九龍浄瓶

青磁象嵌菊牡丹文鶴首瓶

青磁瓶

青磁象嵌牡丹蝶文浄瓶

青磁彫刻鴛鴦蓋香炉

青磁陽刻牛馬文盤

国宝 八万大蔵経 版殿
高麗時代 海印寺
国家の安泰・繁栄を祈願して
製作された



安宅コレクションには優れた中国陶磁も多い。
陶磁器としての知名度の差と思うが、安宅コレクションの中の大部分を占める高麗青磁の国宝は一点もないのに対し、中国陶磁は2点含まれている。
重要文化財も中国陶磁11点、高麗青磁1点、日本陶磁1点となっています。
ただ安宅コレクションの中で、朝鮮陶磁(高麗青磁・その他朝鮮陶磁)は歴史的変遷、陶芸技法などすべてを網羅し、ほぼ完璧なコレクションが形成されているのに対し、中国陶磁は名品主義で質は高いが、清時代のものが一点もないなど、コレクションとしては不十分と言われている。



加彩婦女俑

三彩貼花宝相華文壺

重要文化財
木葉天目茶碗

国宝
油滴天目茶碗

青磁 水仙盆

重要文化財
青磁鳳凰耳花生

国宝
飛青磁花生
   

   


安宅コレクションには、高麗青磁以外の朝鮮陶磁が485点ありますが、日本陶磁は2点しか含まれていません。
今回の訪問では高麗青磁を鑑賞することが主な目的でしたので、朝鮮陶磁も日本陶磁もほとんど撮影しませんでした。



青化辰砂蓮花文壺


鼻煙壺のコレクター沖正一郎氏から寄贈された鼻煙壺1200点からの展示です。
鼻煙壺というものは初めて知りましたが、小さな壺に嗅ぎたばこを入れ、たばこの粉末を鼻から吸ったり、こすりつけたりして刺激を楽しむための物だそうです。
ヨーロッパに始まり中国に伝わって、上流階級を中心に流行し、壺の材質も、磁器、ガラス、玉、瑪瑙、水晶、象牙、金属など各種の材料に高度な技術を用いて精巧な装飾を施したものが作られ、美術工芸品の1ジャンルを形成しました。





重文 青磁陽刻龍波濤文九龍浄瓶 青磁象嵌唐子葡萄文瓢型水注 上記の部分 青磁透彫唐草文箱 重文 青磁陽刻蓮唐草文浄瓶 上記の部分 青磁椀 青磁輪花盤 青磁陽刻菊花文椀 重要美術品 青磁陰刻蓮花文三耳壺 解説文 重文 青磁陽刻蓮唐草文浄瓶