先日、関市に円空館があることを知り、見に行った。
近くに駐車場がなく、すこし離れたところに円空館の駐車場があったのでそこに車を置いた。
駐車場には他に駐車した車はなかったが、その場所はかなり広い空地でそばに弥勒寺という新しい寺があった。
円空館への案内標識に従って進むと、廃墟跡のようなところに出た。
どうもここが弥勒寺という古い寺院のあとの様でした。
中門跡、鐘楼跡、金堂跡、塔跡、回廊跡など沢山の石の標識があり、説明文もあった。
この説明文によると、この場所は『弥勒寺官衙遺跡群』という国指定史跡で、壬申の乱でこの地の豪族ムゲツ氏(牟義都、牟下津などと表記)の身毛君広(ムゲツキミ ヒロ)が大海人皇子の側について功績があったため、大海人皇子が天武天皇となったあと、この地方を治める役人としての地位を固め、中央政府の援助を得て、ここに氏寺の弥勒寺を建立し、奈良時代に入って武儀郡の役所を整備したのです。
この役所跡が弥勒寺官衙遺跡群で、律令体制を支えた地方官衙遺跡として知られているようです。
ここを見てから、円空館に行った。
円空館は祭祀跡が発見された弥勒寺西遺跡にあり、静かないい雰囲気の場所にあります。
展示品は関市域の神社・寺・個人などが所蔵する円空仏約291体の中から展示するもの選定し、年3〜4回借用し展示。1回の展示数は約30体とのことでした。
ここも写真撮影は禁止なので円空館のパンフレット以外写真はありません。
その他、弥勒寺跡や弥勒寺官衙遺跡(弥勒寺東遺跡)、弥勒寺西遺跡の出土品なども展示してある。
円空は上記の弥勒寺を再興して住職となりこの地で没したとのこと。
近くの山中に墓もある。
言い伝えでは、円空は死期を知って土中の穴に入って入定したとされ、近くの長良川のそばに入定塚がある。
一本の木から 彫られた二体の像 |
左の2体の像の内の一体 |
愛染明王 |
円空館 |
円空入定塚 |
入定塚の説明文 |
円空の墓 |
美術館パンフレット表面 画像・表はクリックすると拡大表示されます |
美術館パンフレット裏面 説明文はクリックすると拡大表示されます |
この弥勒寺・官衙遺跡群はこの地の豪族ムゲツ氏が造ったとされるが、日本書紀いあらわれるムゲツ氏は景行天皇の40年日本武尊(小碓命)が熊襲など西国の賊を平定して帰ったとき、東の蝦夷などが暴れているのでだれかその平定に向かうよう天皇の下命があったが、日本武尊はまだ西から帰ったばかりなのでの兄の大碓命に下命してほしいと申し出た。
しかし大碓命は恐怖のため草の中に隠れてしまったので、天皇は怒って、『まだ賊と向かい合ってもいないのになぜそんなに恐れるのか』、と言って美濃に封じた。
この大碓命が身毛津君、守君の祖先である。 ・・・・と書いてあります。
また、大海人皇子(天武天皇)が天智天皇の死の直後、吉野で壬申の乱の発端となる詔を村国連男依、和珥部臣君手、身毛津君広に発して、美濃に行って戦いの準備をするように指示したとなっている。
身毛津君広は戦功をあげたようで功封六十戸を受けている。
祖先の大碓命の話は伝説の域を出ないと思うが、いずれにしろ、この記事によりムゲツ氏が皇室とつながっているとされていたらしい。
この遺跡についての詳細な資料が奈良文化財研究所の古代地方官衙関係遺跡データベースに詳しく載っています。
このデータからの遺跡平面図ですここをクリックしてください。
実際のデータは、これより容量20倍以上のはるかに精細な図面データです。
新しい現在の弥勒寺 |
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駐車場にある案内図 |
駐車場から弥勒寺遺跡への道 |
遺跡に到着 |
遺跡の説明 各パネルをクリックすると表示 その他部分クリックで全体表示 |
中門跡 |
金堂基壇跡 |
金堂跡 |
塔跡 |
基壇 |
塔跡 |
塔跡・基壇 |
金堂跡・基壇 |
講堂跡 |
講堂回廊基壇 |
講堂基壇 |
講堂周辺 |
経蔵跡・経蔵回廊基壇 |
経蔵跡と手前の講堂回廊基壇 |
弥勒寺から円空館へ |
昼食は関市内のウナギの辻屋でとった。 かなり古い店のようで味も良かったし、なにより店の雰囲気がよかった
店の間口は狭いが、京都の店のように奥が深かく、洒落ではないがウナギの寝床のような店でした。
正面 |
店内 |
美味しかった |